嵐の二宮和也君が大好きな 主婦のひとりごとです。
脚本家・宮脇卓也さんインタビュー
2016年07月28日 (木) | 編集 |



CS放送女性チャンネル♪LaLaTVにて、8・9月の2カ月にわたり、

故・蜷川幸雄の追悼番組が放送される。

8月には2014年から1年半に及び蜷川を追ったドキュメンタリー

「 疾走する蜷川幸雄80歳~生きる覚悟~ 」 、蜷川が

監督した映画 「 蛇にピアス 」 「 青の炎 」 、そして演出を

手がけた舞台 「 ヴェニスの商人 」 「 ヘンリー四世 」

「 ヘンリー六世 」 の6作品を放送。

9月にも6作品がラインナップされている。



ステージナタリーでは放送に先がけ、当時の蜷川と親交の

あった人物へのインタビューを2カ月連続で実施。

今月は映画 「 蛇にピアス 」 と 「 青の炎 」 の脚本を

蜷川と共同執筆した脚本家・宮脇卓也に、過去のエピソードから、

在りし日の蜷川を語ってもらった。




── 稽古場で時間を過ごす中で、プライベートな会話を交わす

機会はありましたか?


僕、蜷川さんのご自宅の隣の駅に住んでたので、帰りによく

車に乗っけてもらってたんです。

蜷川さんの家、ドキュメンタリー 

( 「 疾走する蜷川幸雄80歳~生きる覚悟~ 」 ) にもちょっと

出てたけど、自宅の庭に離れがあるんです。

あの書斎の鍵を開けっ放しにして

「 俺いないときもここを使ってていいよ。

勝手に入っていいから 」

っておっしゃってくれてたので、勝手に書斎を訪ねて映画観たり

本読んだりしてました。

溝口健二の後期の大映の映画とかはレーザーディスクの

ボックスがあって、全部蜷川さんちで観ましたね。




── 小学生が友達の家に気軽に出入りしちゃう感じですね。

そうそう。

時々母屋に真山さん ( 蜷川の妻・真山知子 ) がいらっしゃって、

挨拶するとお昼を作ってくれたりして。



── 2人のときは芝居の話を深くされることも?


そんなに芝居の話はしてなくて。

「 蜷川さん、なんとかって映画が面白いみたいなんですよね 」

「 そうか。じゃあ観に行こうか 」 って稽古終わりに連れて

行ってもらったり。

だから僕、観たい映画があると蜷川さんに言ってました。

おごってくれるから。



── あはは ( 笑 )。


観終わったあとに蜷川さんが作品について解説してくださる

ので、それを聞いてると勉強になるんですよ。

テオ・アンゲロプロスとか。

エミール・クストリッツァの 「 アンダーグラウンド 」 、

ジム・ジャームッシュの 「 デッドマン 」 も観たな。




── 蜷川さんとの時間は、いろいろ吸収する機会に

なっていたんですね。


ええ。

ただ元々役者志望ではなかったので、ある日稽古が

終わって蜷川さんの車で帰ってるときに、

「 役者辞めようと思うんです。

作るほうに回りたいんです 」

って告白したんです。

そしたら蜷川さんから

「 じゃあうちのカンパニーの演出部に入るか? 」 

って言われて。

でも作家になりたい気持ちが大きかったので、これだけ

お世話になりながら 「 嫌です 」 って答えて ……

「 なんだよお前 」 って激怒されましたね。

舞台美術家の ( 中越 ) 司さんの車が後ろからついて

きてたんで、

「 お前もう司に乗っけてもらえよ 」 って、青梅街道で

降ろされました ( 笑 ) 。


── 関係に亀裂が ……。

そこからどうして、 「 青の炎 」 の脚本を依頼される

ことになったんですか?


車を降ろされたのが1998年で、そこから2年ぐらいは、アルバイト

しながら1人で小説を書いてました。

時間が経ってほとぼりが冷めたくらいに、また蜷川さんのところに

顔を出すようになって原稿を読んでもらったり。

だんだん 「 ああ、役者下手だからこっちのほうがいいよ 」 と

言ってもらえるようになり、2001年に

「 カンパニーの公演やるからなんか書けよ、よかったら使ってやるよ 」

って声がかかって、オリジナルで芝居の本を書き下ろしたのが、

脚本家としての初仕事です。




── ベニサン・ピットで上演された、ニナガワカンパニー・ダッシュ名義の

「 2001・待つ 」 ですね。


その公演が終わった後に、蜷川さんが 「 青の炎 」 を撮ることに

なって、 「 何人か作家さんでコンペティションやるから、参加して

みたら 」 って言われて、書いたのが2002年の最初ぐらい

ですかね。

それを採用してもらったのがきっかけです。





── 実際に 「 青の炎 」 の脚本を書くにあたって、

「 蜷川さんに演出される 」 という意識を持って臨みましたか?




それは特にはなかったです。

20代前半に蜷川さんの書斎や稽古場でいろいろ吸収させて

もらったので、蜷川さんのやりたいこととか好きなものから

自分も多大な影響を受けているから、意識する必要も

なかったんだと思います。


── オープニングに登場する水槽は、蜷川さんが手がけた

舞台 「 海辺のカフカ 」 やさいたまゴールド・シアター

「 鴉よ、おれたちは弾丸をこめる 」 にも見られる、まさに

蜷川さんの演出だと思いました。


そうですよね。

僕の脚本上は書いていなかったので、水槽を使ったのは

蜷川さんの演出です。

「 NINAGAWA・マクベス 」 も、最後マクベスが死ぬときに

舞台の中央で膝を抱えて丸くなってましたし、水槽っていうのは、

“ 子宮 ” じゃないけど、おそらく蜷川さんの中にある

イメージなんでしょうね。


── 完成した映画を見て、特に気に入っているシーンは

ありますか?


秀一 ( 二宮和也 ) と石岡 ( 川村陽介 ) の2人が、

長いエスカレーターで話してるシーン。

石岡が脅してるのに、秀一のほうがリードしてるみたいな、

あの2人の関係がよくでてる。

そして行きつ戻りつしながら留まっている感じが、いいなあと

思いますね。

映画の中に演劇的な蜷川さんの演出が入ってる、好きな

ところかな。

あと自分が台本に残してよかったと思うのが、刑事と秀一の

母親が話してるところに少年がふらっと自転車でやってきて、

ジュースを買おうとするシーン。



── お金を入れてもジュースが出てこなくて、ずっと自販機を

蹴っている場面ですね。


そうです。

プロデューサーからは 「 このシーンいる? 」 って

言われたんですよ。

海岸に自販機をセッティングするだけで労力とかお金もかかるし。

でも蜷川さんが、 

「 物語の主人公ではない世界の片隅にいる無名の若者が、

今もどこかでふつふつと苛立ってる。

無言で蹴飛ばし続ける、彼らの世界に対する異の唱え方というか、

自分たちの主張みたいな叫びがちゃんと入ってる映画って

いいんだよな 」

って後で褒めてくださって。

ああ残してよかったな、とすごく思いました。



── 舞台の現場では厳しく指導されている印象がありますが、

映画の現場では蜷川さんはどう振る舞われていましたか?


気を遣ってたんじゃないですか?

舞台のスタッフには、がーっと言うときもありますけど、映画に

関しては 「 俺、新人監督だからな 」 とか言ってました。



── では、映画の現場ではそんなに怒号は飛ばない?


役者には飛びますよ。

でも二宮くんはちょっと器が違った。

およそ1カ月間の撮影に立ち会いましたけど、現場で台本

開いてるのを見たことがないです。

130シーンぐらいある中で二宮くんが出てないシーンって

3シーンぐらいしかなくて、セリフの量も多いし特殊なセリフも

けっこうあるんだけど、現場に台本を持ってこない。

ゲームやったりギター弾いたりしながら本番が始まるのを

待ってるんだけど、指示とかは全部聞いてるんですよ。

カメラの位置も完璧に把握してる。

2002年の夏だったので ( 嵐の ) コンサートのリハーサルや

新曲の振り入れとかもあったはずで、寝てないのに全然

そういうところ見せなくて。

よく蜷川さん 「 アイドルすげえよ 」 って言うでしょ。

本当にそう思う。

でも 「 蛇にピアス 」 では、高良 ( 健吾 ) くんに怒号

飛びまくってました ( 笑 )。




── 高良さんは2008年当時、デビューしたてでしたもんね。

映画初主演の吉高由里子さんにはどんな印象がありましたか?



ルイ役の最終オーディションを覗いてたんですけど、吉高さんが

部屋に入ってきた瞬間、 「 ルイが入ってきた! 」 って。

蜷川さんと面談して軽く台本を読んで、彼女が部屋を出て

行ってからみんなで即決しました。



── 原作のイメージにハマっているなと思いました。

映画のロケ地を原作の新宿から渋谷に変更したのは、

オープニングでスクランブル交差点を使った演出をしたいという

蜷川さんのご希望だったんでしょうか?


蜷川さんは渋谷のBunkamura シアターコクーンの芸術監督を

されていたので、渋谷の街っていうのは蜷川さんの中で

ホームタウンみたいな、やっぱり他の街とは違う思い入れが

あったんだと思います。

スクランブル交差点の演出は、最初から蜷川さんの頭の中に

イメージがあったみたいですね。

「 360度、カメラがパンするんだよ 」 

ってうれしそうにスタッフの前で言ってました。

ヴェルナー・ヘルツォークっていうドイツの監督が撮ってる

「 フィツカラルド 」 っていう映画があって。

山の上に蒸気船が乗っかって壮大なイメージのオペラが流れてる

むちゃくちゃな映画なんですけど、そのオープニングを渋谷の

真ん中でやろう、って言ってました。



── 印象的な導入部でした。

ほかにお気に入りのシーンはありますか?


刺青屋 「 Desire 」 でのルイ ( 吉高 ) 、アマ ( 高良 ) 、

シバ ( ARATA ) さんのシーンはどこも好きなんですけど、

そこ以外でってなるとヤクザが出てくるシーンかな。

藤原 ( 竜也 ) くんと小栗 ( 旬 ) くんが演じてて。

小栗くんは当時 「 カリギュラ 」 の本番中だったんじゃないかな。

藤原くんは小道具の金歯を自分で持ってくる気合の入れようで。

チンピラ1、チンピラ2としか脚本に書いてなくて、藤原くんに

「 役名ください 」 って言われたので、 

「 じゃあ吉田光洋と横山悟ね 」 

って咄嗟に浮かんだ僕の友人の名前を役名に付けてあげたら、

お互いが 「 俺、みつって呼ぶわ 」 「 俺、こういうキャラクターでいくね 」

って自分たちで役を膨らませて楽しんでました。


── チョイ役なのに、本当に豪華なキャスティングでしたね。


蜷川さんも、手塩にかけて育てた2人がゲスト出演でも来てくれたのは

うれしかったと思うんですよね。

なので5月16日の蜷川さんの葬儀で、あの2人が弔辞を読んだのは

感慨深かったです。




── 蜷川さんが皆さんに慕われていたことが、本当によく

伝わってきます。


藤原くんや小栗くんと現場で共演した高良くんが、あとで、

「 藤原さんや小栗さんは小さな役でも楽しんで役作りをしていてすごい。

自分はアマっていうこんな大役をいただいてるのにできないから悔しい 」

って僕に言ってきて。

でも僕は数年前に藤原くんが同じことを言ってたのを知っているので、

「 竜也も昔はそう言ってたよ、大丈夫 」

っていう話をしたんです。



── 藤原さんにもそんな時期が。


1997年に 「 身毒丸 」 のロンドン公演で、藤原くんが舞台初主演を

務めたときは無邪気でしたよ。

ロンドンで一緒にスーパーへ買い物に行ったとき、

「 宮脇さん、僕今から英語で買い物しますから見ててください 」 

って、レジで 「 オッケー、イエス! 」 しか言わず、

お金もあるだけ手のひらに出して、 「 とってくれ 」

って店員さんに見せて、 「 ね、買えたでしょ 」

って誇らしげに笑ってた。

その彼が、2001年の 「 近代能楽集 卒塔婆小町/弱法師 」 

のときには、同じロンドンの劇場で 「 ( 初日が ) 恐いんです 」

ってぽろっと言ったんですよ。

同じ舞台に立ってるのに 「 恐くてしょうがない 」 って。

それって4年の間にいろいろ経験して、演じるってことの難しさ

とか恐さっていうのが彼なりにわかったってことで。

この人はもっともっと先へ、俳優として成長していくんだろうな

って思いました。

それから6年後の2007年に、ヤクザを演じる藤原くんを見て落ち込む

高良くんがいて。

面白いですね。

皆さんこうやって壁を通過して、役者として成長していくのかなと

思いますね。



── 蜷川さんの元で、若手の方々がどんどん育っていった

印象がありますね。


でも蜷川さんって、一歩退いて若手を育成しようって気は

さらさらないと思うんですよ。

どちらかというと常にトップランナーでいたい、若いやつに

負けたくない感じだったから、ずっと現役感があるし、

枯れなかったんだと思う。

若いやつからエネルギー取ってやろうって思ってるタイプ ( 笑 )。

後進に道を譲ろうなんてさらさら思ってなかったと思うんですよね。

それを見て僕らが勝手に学ぶというか、成長させてもらったん

じゃないですかね。



── 結果的に若手が育っていったけど、本人はそういうつもりじゃないと。

今回、 “ 追悼 ” ということでインタビューをさせていただいてますが、

それこそ最後まで最前にいらした方なので、この特集を見たら

蜷川さんは何と言うかな、と思ったりします。


おっしゃるように、蜷川さんって “ 現在 ” にすごくこだわった方

なので、振り返るのは難しいですね。

でも作品は発表されたそばからどんどん古くなりますが、蜷川さんの

作品が持つ本質は、 “ 現代 ” を浮かび上がらせるんですよね。

例えば 「 蛇にピアス 」 のオープニングみたいに、渋谷の街とか

広告看板は今改めて見ると時代を感じるけど、そこにいる

人たちの佇まいの中に、現在の空気感を発見できるかもしれない。




── 2008年の渋谷の街を見て、視聴者は自分が今在る状況を

それぞれに思い浮かべるということですね。


蜷川さんはよく 「 壊れたテレビには何も映らねえんだよ 」

って言ってて。

受け取る側がしっかり電波を受信してないと、そこには何も

映らない。

だから自分たちなりのアンテナで、蜷川さんが発信した電波

みたいなものを、しっかり受け取らなくてはという思いがあります。



── 映画の撮影以降は、蜷川さんとお仕事は?


最後にお会いしたのが去年の5月かな。

彩の国さいたま芸術劇場で 「 海辺のカフカ 」 の稽古をやってて、

明日からみんなニューヨークに行くっていうタイミングでした。

てっきり快く送り出すのかと思ったら、急に

「 ホントだったら 『 みんながんばってきて 』 って言えばいいん

だろうけど、そうはいかねえぞ!

こんな素晴らしい原作をもらって、つまんねえ芝居を

やってくんじゃねえぞ、このやろう! 俺、許さないよ! 」

って怒鳴り始めて。

蜷川さんが命を削りながら伝えようとしていると感じたし、

みんなそれを受け止めてニューヨーク公演に臨んだん

じゃないかな。

あのときが、僕が蜷川さんを見た最後です。

「 やっぱりすげえな 」 と思いながら帰りました。

あの激烈な姿が最後の印象として僕の胸に焼きついて

いるので、これで良かったのかなと思います。



── 最後に、蜷川さんから教えてもらったことで、一番印象に

残っていることを教えていただけますか。


蜷川さん、よく雑談で

「 気付いちゃう不幸と気付かない不幸だったら、気付いちゃう

不幸のほうがいいよな。

厄介だけど、ものを作るならそのほうがいいし、その不幸を

正しく引き受けるしかない 」 

って言ってたんですけど、そのことはずっと僕の中にあります。

蜷川さんって他人にも厳しいけど、自分に対するチェックも

すごく厳しくて、

「 今俺は正しいか 」 「 間違ったジャッジをしてないか 」

「 ちゃんと世の中の、時代の空気を捕まえられているだろうか 」

っていうようなことをすごく考えてた方なんですよね。

なので自分に置き換えて 

「 “ 気付かないやつ ” になってねえかな 」

っていうことは、常々自分でも問いかけるようにしてます。




蜷川さんとのお話、興味深いです。

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